2007年11月14日
「託児所」小学校
(書きかけ文)
学校は、本来は、意図的な教育がなされる場。しかし、ワクの中にはいれず、「託児所」的な過ごし方をしている子どもの様子も、学校の中にあるのではないか。
・子ども一人一人の教育する場所になっていない。
・単に時間を過ごしているだけの場所になっている
具体的な様子としては、
・常習的に遅刻をして登校する
・教室にいても、授業を真面目に受けられない。
・教室に入らないでうろうろする。
・教師との関係は、特に悪いということではないが、ワクに入れる教師の指示に従えない
いわゆる「学級崩壊」は、個々の子どもや、子ども集団のエネルギーを「うまくつかめない」、「うまく流れをつくれない」などの教師のありようにも問題がある場合が多い。
この「託児所的小学校」の様子は、「個の問題」の割合が大きい。「不登校」と同じように、「自己実現」への道筋を共通理解すると共に「個々の事例」を「学校全体」で支えていく必要がある。
40人の集団を指導する担任一人では、対処しきれない。個々の子どもにあたる「教育ボランティア」を、個々の子どもと空間を共に過ごすようにし、人間関係を創る中で、個々の子どもの課題を明らかにすると共に、自分の課題に向かう前向きなエネルギーをいっしょに引き出していく手だてをすること。
どの子どもにもであるが、どういう様相を呈していても、全人的扱いをすることが、第一である。これが一番基本であるし、事にあたってもっとも大事にされなければ、解決に結びつかないことである。
学級・授業というワクにははいれないが、学校に登校するのだから、そういう「学校というワク」には、入ってきている。だからそのなかで、できることは、多いはずである。
しかしながら、今までは、例えば、漢字テストをしたとすれば、わからなければ、答えられず0点であるのがあたりまえであった。「ぼくしない」というような、「テストそのもの受けない」という、ワクにはいらないことなど、想定していなかった。授業がわからなくても、教室の中にいるというのが、あたりまえであった。「いたくないから、教室に入らない」ということは、想定していなかった。
だから、40人という子ども集団をひとつの教室で、管理・経営できていた。
今考えつく解決方法は、「その子に関わる人」が必要であるという考えである。個々の子どもに対応する人がいれば、一人一人にあった教育ができ「託児所」的というようなことはおこらない。
しかし、もっと、違った視点から、たとえば、その子が本来持っている意欲を出せる場面設定を今の教室の中に設定する・・・等々の解決策も考えられるのかも知れない。
さらにいえば、その原因の根っこにあたる部分を改善しなければ、解決につながらないのかも知れない。幹がのびようとしていてもね根っこの部分で、腐っていたりすれば、のびられない。
先日・・・タバコの害についての授業をしていただいた。
普通の水で芽を出し育っていくカイワレ大根と、タバコを溶かした水で育てたカイワレ大根の育つ様子を写真で見せていただいた。水の違いにより、育ちが違うのは、事実である。
一番の被害者は、その子ども本人である。
まだ、自分のことを十分に顧みることができない幼い子どもである。
まず、教師の仕事としては、その子どもを守ると同時に、育ち・学ぶ環境を教師がつくり、その集団の価値観の中に子どもをつからせておく。このことが教師の日々の大切ないとなみであろう。
学校は、本来は、意図的な教育がなされる場。しかし、ワクの中にはいれず、「託児所」的な過ごし方をしている子どもの様子も、学校の中にあるのではないか。
・子ども一人一人の教育する場所になっていない。
・単に時間を過ごしているだけの場所になっている
具体的な様子としては、
・常習的に遅刻をして登校する
・教室にいても、授業を真面目に受けられない。
・教室に入らないでうろうろする。
・教師との関係は、特に悪いということではないが、ワクに入れる教師の指示に従えない
いわゆる「学級崩壊」は、個々の子どもや、子ども集団のエネルギーを「うまくつかめない」、「うまく流れをつくれない」などの教師のありようにも問題がある場合が多い。
この「託児所的小学校」の様子は、「個の問題」の割合が大きい。「不登校」と同じように、「自己実現」への道筋を共通理解すると共に「個々の事例」を「学校全体」で支えていく必要がある。
40人の集団を指導する担任一人では、対処しきれない。個々の子どもにあたる「教育ボランティア」を、個々の子どもと空間を共に過ごすようにし、人間関係を創る中で、個々の子どもの課題を明らかにすると共に、自分の課題に向かう前向きなエネルギーをいっしょに引き出していく手だてをすること。
どの子どもにもであるが、どういう様相を呈していても、全人的扱いをすることが、第一である。これが一番基本であるし、事にあたってもっとも大事にされなければ、解決に結びつかないことである。
学級・授業というワクにははいれないが、学校に登校するのだから、そういう「学校というワク」には、入ってきている。だからそのなかで、できることは、多いはずである。
しかしながら、今までは、例えば、漢字テストをしたとすれば、わからなければ、答えられず0点であるのがあたりまえであった。「ぼくしない」というような、「テストそのもの受けない」という、ワクにはいらないことなど、想定していなかった。授業がわからなくても、教室の中にいるというのが、あたりまえであった。「いたくないから、教室に入らない」ということは、想定していなかった。
だから、40人という子ども集団をひとつの教室で、管理・経営できていた。
今考えつく解決方法は、「その子に関わる人」が必要であるという考えである。個々の子どもに対応する人がいれば、一人一人にあった教育ができ「託児所」的というようなことはおこらない。
しかし、もっと、違った視点から、たとえば、その子が本来持っている意欲を出せる場面設定を今の教室の中に設定する・・・等々の解決策も考えられるのかも知れない。
さらにいえば、その原因の根っこにあたる部分を改善しなければ、解決につながらないのかも知れない。幹がのびようとしていてもね根っこの部分で、腐っていたりすれば、のびられない。
先日・・・タバコの害についての授業をしていただいた。
普通の水で芽を出し育っていくカイワレ大根と、タバコを溶かした水で育てたカイワレ大根の育つ様子を写真で見せていただいた。水の違いにより、育ちが違うのは、事実である。
一番の被害者は、その子ども本人である。
まだ、自分のことを十分に顧みることができない幼い子どもである。
まず、教師の仕事としては、その子どもを守ると同時に、育ち・学ぶ環境を教師がつくり、その集団の価値観の中に子どもをつからせておく。このことが教師の日々の大切ないとなみであろう。